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限界

 かの少年の瞳に映る希望は、自分にとってはとても眩しい。それでいて、時々吸い込まれそうになってしまう。それではいけないという自制の心は常に自分の傍にある。傍にあるのに、やはり時々どこかに消えていってしまう。
 自分は希望を捨て置いたのだ。一度捨てたものなのだから、拾ってはいけない。まして、受け取るなど。自分の中に希望はいらないから、捨ててきたのだ。そう、彼に、見出すだけで十分だ。いらないものだと言い聞かせる。
 望まなければ失望に苛まれないだろう。違うのか。

「悟飯さん!」

 小さな体が、体当たりするように正面から飛びついてきた。考えごと、というよりそれすらも忘れてぼんやりとしていたため、一瞬驚いた。それを隠すように何、と聞いて穏やかに笑う。

「今の、話。聞いてた?」
「聞いてたよ」

 本当に、と訝しげに見上げる瞳とかち合った。不安げな眼とは裏腹に青い瞳はやはり希望に満ちていて、眩しかった。その眩しさに思わず目を閉じる。それでも笑顔は絶やさずに、ああ、と短く返事をした。
 しかし、それでも少年は不満のようで、抱きついた腕の力を強めた。重心の変化に少しよろけて、近くあった窓に手を付いた。痛くはないが、少し苦しい。抱きつかれたところが、というより、胸が。
 それを紛らわすように手を付いた窓を見ると、外は少し暗い。反対に中は小さなランプの明りで少し明るい。窓には外よりも、自分達の姿の方がよく見えた。
 そうして他に意識を飛ばしていると、下からねえ、と催促する声が聞こえてきた。

「じゃあ……返事してよ」

 聞いていた質問の答えは、まだ用意していない。トランクスは答えてもらえなかったことが不満だったらしい。眉を寄せて、怒っているのか悲しいのか、複雑な顔をしていた。普段じゃれ付いて来られるのと同じような感覚だった。思わず苦笑して、トランクスの頭を撫でる。だが、やはり答えは用意できていない。
 いや、そうではなかった。用意してないのではない。彼の望む答えを言うことができないのだ。

「うん……ごめん」

 見上げてくる真摯な瞳にも、それしか言うことができなかった。卑怯だとは分かっていた。だが、その瞳は見られない。その返事も返せない。
 好きだと言われても。
 トランクスは顔を歪め、何か言おうと口を開いた。が、それは声を発することなく閉じられた。そうしてそのまま悟飯の胸に顔を埋め、肩を震わせた。
 泣いているのか。それは分かったが、それに対してかける言葉が見つからない。
 いつもなら何か言うべき言葉があるはずであるのに、頭の中に浮かんでこない。むしろ、言わなければいけないものと真逆の言葉が浮かぶ。いけないという理性に反して口から現れ出ようとする。

「…僕は、悟飯さんのこと、好きだよ…悟飯さんが、僕を好きじゃなくても…」
「…そんなことは……」

 ないよ、と言おうとして、顔を上げかけたトランクスの頭に手を置き、抱き返した。それ以上は言わない。その真摯な気持ちに応えられないことを情けなく思うが、もっと、深刻な問題だった。せっかく捨てたものを拾ってどうする。
 本当は。自分の想いに心を託してしまいたいし、彼に身を委ねて、傍に居たいとも思う。だが、それは甘えという感情だった。この小さな肩に寄りかかる、とても、そう、よくないこと。
 相反する感情はどちらも自分を締め付けて、自制心はその姿を潜めてしまっている。
 こんな顔は見せられないと、光を反射する窓を見て思う。窓の向こうの、苦笑した赤い顔。
 望まなければ失望に苛まれないだろう。違うのか。違いはしない。ただ、自分はそれでは駄目だったようだ。希望がなければ生きていけない生き物で、どうしようもなく寂しくて、辛かった。
 きっと、もうそろそろ限界が来ている。

”僕は、悟飯さんのこと、好きだよ…”
「………っ……」

 それでも、この感情だけは言えない。言ってしまえばどうなることか想像はつかないけれど、きっと駄目になってしまう。見上げられないほどに、ぎゅっとトランクスを抱きしめた。
 最後の悪足掻き。

時間の正方向

 カチカチカチカチ。時の進む音が部屋に響く。同じ時間を刻みつつ、ゆっくりなようで早いような感覚を人に与える。
 トランクスが時計を見ると、まだ深夜の一時。朝には程遠い時間だったことに諦めのため息をついて、ベッドの上にボスッと音を立てて横になった。天井を見ていても、眠れることもない。
 明日はいよいよタイムマシンに乗って過去に行く日である。その緊張なのか、不安なのか、トランクスはどうしても眠れずにベッドでごろごろしていた。そうしているうちに、朝が来ないものかと思って。
 しかし、思っていたより時が進むのは遅くて、何度も時計を見ている割にはちっとも針は進んでくれない。

「遊びに行く前の日の子供みたい」

 口に出してみて、もっともだと思って軽く笑った。そういえば、自分も昔悟飯と遊びに行く前日は楽しみで仕方がなくて、待ち遠しくて眠れなかったと、昔と変わらない自分の姿に笑いが苦笑に変わる。
 そうして、前日眠れなかったことで、肝心の遊びに行く日に眠くて仕方がなくて、悟飯に迷惑をかけたこともあった。彼は、しょうがないな、といって笑っていたが。
 あまり、彼のことは思い出さないようにしていた。思い出してしまえば、辛くなるだけだと<思っていたから。だが、今彼を不意に思い出すと、トランクスの中で楽しかったことや、嬉しかった思い出が頭の中に広がった。
 そうして、ふとまた起き上がり時計を見ると、既に三十分も経過していた。
 あと、約十時間。十時間後に、タイムマシンに乗って過去に旅立つ。十九年前の過去に。


 不思議だよね


「え?」
「だから、変だと思わない?…聞いてなかった?」

 目の前にいる悟飯が、訝しそうにトランクスの顔を覗き込んできた。トランクスはまずその彼の行為に驚いたが、少し下がった声のトーンを聞いて、悟飯が怒ったのかと思って、慌てて弁解を図った。

「ち、違うよ!よく、分かんなかっただけ!もう一回聞かせて?」

 必死に言ってくるトランクスに悟飯は苦笑して、慌てている少年を静めて話し出した。

「俺たちのいる場所の、ここって何て言う?」

 そう言って、悟飯は前の方に手を出して、くるくると浮遊させる。

「…前?」
「そうだね、じゃあこっちは?」

 今度は肩越しに後ろのほうを指差して、トランクスに問いかける。トランクスは悟飯のしていることに意味を見出せないまま、言われるままに答えた。
「後ろ」
「うん、そうだよね。じゃあ、次の質問」

 言いながら悟飯は、ズボンのポケットから腕時計を取り出した。

「今は丁度二時だね。…一時だったら、今から、何て言う?」
「えっと…一時間…前?」
「そうそう、それじゃ、三時だったら?」
「一時間後」
「そう。変だと思わない?」
「……はぁ?」

 悟飯の意図がまったく掴めずに、トランクスは間の抜けた返事を返した。そんなトランクスの返事に、悟飯はくすくす笑いながら、ちゃんと聞いていたのか?と冗談っぽく言った。
 聞いていたことは聞いていたし、悟飯の質問にもきちんと答えていた。そのこと自体には疑問を感じていたが、今の応答で変なところと言われても、トランクスには見当もつかなかった。
 分からないことに腹を立てて、トランクスはむうっとして悟飯を見上げた。

「分かんないよー」
「ははは、ごめんごめん、分かんなくて当然なんだよ。普通の話をしていただけなんだから」

 悟飯は愉快そうに笑って、トランクスの頭を優しく撫でて制した。
トランクスは、どことなく嬉しそうにその温かい掌を受ける。腹を立てていたのも忘れてしまいそうだった。

「つまりね、空間のことは、今から向かう方を前と言って、通り過ぎてしまった方を後ろって言うだろ?でも、時間は逆で、まだ先のことを後って言って、過ぎてしまった方を前って言う」
「…あ」

 トランクスは納得したのか、意味を成さない声を出して目を軽く開く。それを見て、悟飯はにっこりと笑った。

「俺が変だなって思ってるのは、そういうことなんだよ」
「そっかぁ。ホントだ、変だね」

 ようやく分かった喜びからか、トランクスはにこにこと笑って悟飯に同意した。
 それだけに満足したのか、トランクスはそれ以上の疑問は湧いてこなかったらしい。子供らしい思考に、悟飯は穏やかに笑いながら、己の感じた疑問の答えを、自分の中で探し出していた。
 口には、出さなかったけれど。


 トランクスがはっと気がつくと、すでに外は明るくなっていた。時計を見ると、七時を指していた。
 夢の中の出来事だとは分かっていたけれど、ほんの一瞬の出来事だと思っていた。それが、いつの間にこんなに時間が過ぎてしまったのか。
 ……嬉しかったけれど。
 自然に綻ぶ顔をそのままに、トランクスはベッドから起き上がって、朝の支度をする。いよいよ今日、タイムマシンで過去に出発するのだと、意気込んで。
 タイムマシンの準備は万全で、あとはトランクスが乗り込んでスイッチを押せば、自動的に過去へ飛ぶことができる。

「それじゃ、いってきます、母さん」
「気をつけてね」

 タイムマシンの上から、トランクスは得意げに拳を作っているブルマを見下ろして手を振る。手元のスイッチを押せば、設定した時間にたどり着くことができる。
 本当はもう一人、行ってきますを言いたかった人が居たのだが。


 不思議だよね


「あ」

 昨晩の夢を、唐突に思い出した。自分が今行こうとしている時間の方向。その答えに、たどり着いた。
 今から向かうのは過去。
 でも、自分が今いる時間より、前へ向かう。そう、後ろを振り返るのではなく、前へ。向かう先は過去かもしれないけれど、自分にとっては未知なる未来へ。
 どことなく、安心感が心を満たした。


 前へ。前へ。進む先にあるものは、全て未知なるもの。

望む存在

 爆発寸前の時限爆弾を投げつけられた…ような。


 今も隣にいるような気がした。でもそれは間違いで、彼は遥か後ろの方に立ち止まったままだった。自分だけが進んでいても、意味がないと今でも思っているのに。
 それでも、自分の思いに後ろ髪を引かれながら進んでいく自分に、呆れるやら、何なのやら。
 貴方がいなければ意味がないと、甘えだと知りつつも心の奥底から望んでいる。
 その望みを叶えてくれる人はもういない。
 いない、はずだったのに。


 未来よりも澄んだ過去の星空を見て、トランクスはため息をついた。
 あの星の一つ一つにも名前があるのだと、知ってはいるがその名前は知らない。街中ですれ違う人々と似ている。自分の生きるこの地球と、その周りのほんの少しの星しか知らない。あとは、知らない。
 でも、名を知らなくても、その存在自体は知っている。一つ一つが誰かにとって、何かにとって大切な、存在。そんなところもやはり、人に似ている。
 それら全てを、守りきろうとした。災厄から守り、美しい輝きを持ったままの姿であってほしいと願い。
 叶わぬ願いとは、考えなかった。

「……トランクスさん?」

 子供の声が、不意に聞こえた。驚いて振り返ると、悟飯が首を傾げて立っていた。
 その姿にほっとして、トランクスは微笑む。

「悟飯さん…どうかしましたか?」
「あ、いえ…トランクスさんが、何をしているのかなって…」

 悟飯はぴょこんと飛び跳ねるようにトランクスの隣に並び、彼と同じように空を見上げる。
 トランクスは、知らず笑みを浮かべていた。それは幸福の笑みであり、喜びの現われだった。
 悟飯とは誰よりも親しく言葉を交わせた。もちろん、実の父であるべジータよりも。というか、べジータの場合は親しいともなかなか感じられなかったが。
 声もなく笑うトランクスを不思議に思って、悟飯は彼を見上げて問いかけた。

「どうしたんですか?」
「…いえ、ちょっと…やっぱり、こっちの世界は綺麗だなって、思って」

 素直な感想を述べると、悟飯は理解できていないのか首を少しだけ傾げた。
 子供らしいその仕草に、やはりトランクスはほっとしていた。

「俺の世界では周りを見るのに必死で、あんまり空を見上げなかったから、知らなかっただけかもしれませんけど」

 笑いながら、言う。しかしその笑みを見た悟飯は、悲しそうな表情を見せた。

「…トランクスさん」
「はい?」
「僕…トランクスさんに聞きたかったことがあるんです」
「何ですか?」

 悟飯は困惑したような顔で、トランクスを見上げる。トランクスは、そんな少年の表情を不審に思った。
 何かを話そうと口を開いても、声にならずにそのまま閉じてしまう。トランクスが促すと、ようやく悟飯は小さな声で話し出した。

「トランクスさんは、べジータさんのことをどう思ってますか?」
「父さん…ですか?」

 意外な質問に聞き返すと、悟飯は肯定の意味で首を縦に振った。トランクスはしばらく考えてから、話し出した。

「そうですね…やっぱり、俺の父さんだから、冷たかったりしても、何であっても父さんは父さんですね」
「…ブルマさんもですか?」
「ええ」

 質問の意図に気づかないまま、トランクスは返答する。

「じゃあ、僕は?」
「…え?」

 突然でもないのに、その質問にトランクスは驚き、狼狽した。なぜそんなことを聞くのかと言おうと目を合わせると、見覚えのある瞳がこちらを見ていた。
 その瞳に、金縛りをかけられたかのようにトランクスは固まった。


「貴方にとって、僕は何なんですか?」

 質問に対してではなく、その顔に驚く。その歳の少年が決してしないであろう大人びた表情に。あまりにも彼に似た、少年の淋しそうな顔に。そう考えるととまた、罪悪感が胸をちくちくと責める。
 まだ幼いこの子に、彼を投影するのはあまりにも酷だと。
 甘えてしまうのは、少年の重荷だと。

「…俺は……」
「僕…未来の僕が、トランクスさんにとって大切な人だったことは分かります。でも、僕はその人じゃない」
「…分かっています。だから、貴方は貴方だ」
「だったら」

 悟飯は、一瞬置いて射抜くような目を向ける。

「何で、そんな風に扱ってくれないんですか」

 分かっていて、分かっていなかった。いや、理解はしていたはずだった。彼は違う、と。少年はあくまで少年で、過去の人間で、自分の師匠ではなくて、未来の世界で死んではいなくて、でも。
 確かに、少年の中に彼を見ることが、なかったわけではない。いや、もしかしたらずっと、そうし続けていたのかもしれない。だから、少年が子供らしい姿であることに安心していた。その姿は、自分の知る彼とはかけ離れた姿だったから。
 最初から、少年を少年として見ていなかった。悪いことだから、そんなことはしていないと心に言い聞かせていただけで。
 隣にいることを望んでいて、でも隣にはいなくて。…でも、その望みを叶えてくれる人に出会ってしまったから。


 だって、彼がいないから。

 爆発寸前の時限爆弾を投げつけられたような、強い衝撃で、不安と恐怖に押しつぶされそうな気持ちで、壊れることが分かってしまった虚無感に似た絶望。
 彼が死んだとき、そんな風に感じた。

 つまりは、置いて行かれたということ。


 そう自覚した途端、涙が、自分の意思とは関係なく溢れ出した。

「……っすみません!」

 手で顔を覆う。泣き止め、と頭が命令しても、涙腺はそれを拒否して、とめどなく流れていった。
 そんなトランクスに悟飯は一瞬驚いたが、彼の心情を知ってか知らずか、両手伸ばして顔を隠す手を退け、涙を拭う。
 トランクスはされるがままに黙って目を閉じ、悟飯を抱きしめる。小さな体も、幼い顔や声も、感覚全てを閉じてしまえば、彼は紛れもなく孫 悟飯だった。
 だから、どうしようもなく大切だった。理由などない。そんなものは、”悟飯だから”で構わなかった。
 貴方がいるからこの世界は意味を帯びる。望みを叶えてくれる人が、この腕の中にいる。

 爆発寸前だった爆弾の、時間が止まった。崩壊する世界は、一時の猶予を得た。
 その代わりに失った、この少年。

「…ごめんなさい」

 沢山の人に対して、沢山の意味があって、沢山の言葉が必要なのに、それしか声に出来なかった。
 悟飯は抱きしめてくるトランクスの背中に、その小さな手を乗せた。
 もっと大きな手なら良かったのにと、悔やみながら。

「ごめんなさい」

 少年の声が、トランクスの耳に響く。謝るようなことは何もないと、思っていても口に出せず、嗚咽へと変わる。

 ごめんなさい。

 それは、誰の言葉だったのか。

秘めたる思い

 天国に至るまで、あとどれだけだろうか。

 ふとそんなことを考えて、苦笑してしまった。そんなに死に急いでいるつもりはなかった。なかったつもりなのに、無意識に思考するあたり、自分が思っているよりも遥かにその意識が強いようだった。
 目を閉じて、自己嫌悪に浸った。冷たい空気が頬を撫でて、頭を冷やすのを手助けした。とはいっても、とっくに頭は冷えているのだが。
 いつもよりもどれだけか冷静な思考が、頭を巡っていた。

 目を開く。
 いつもの、自分の部屋の天井だった。所々色の褪せた木目の、一つ一つにさえ見覚えがあった。
 目線を下ろすと、部屋の一面が見える。壁は少し黄ばんだ白、元から平らではなく、小さく柔らかく凹凸のある面。今の自分は、皺だらけの白いシーツの上にいて、隣に少年が眠っていた。
 全てが、日常的な光景だった。
 ベッドの真横に面した窓の外は暗い。反対の壁にかかった時計を見ると、午前の始まりを示していた。夜は簡単には明けそうもない。
だが、かえってその方が良かったような気もする。

 もうしばらくだけ、このままで居たかった。
 もしかしたら、それだけでも高慢な望みなのかもしれない。常に死を視野に入れつつ生きる自分にとって、誰かと共に居ることでさえも、許されない、無理な願望なのだと。
 望んでいながら、そう思わずにはいられなかった。
 思っていなければ、何かが崩れていく気がした。

 でも、と。彼が居なければ、確実に今の自分を保てなかったというのも事実だった。大切だった。傍に居ることさえも許さない時間が、離れている時が、長く長く感じた。
 それだけ、自分にとって彼は大切だった。

 天国まで続く階段。上は見えない。下も見えない。
 果たして、もしも階段を踏み外してしまったら、地獄に落ちてしまうのだろうか。
 ならば今ここに生きている自分は、どこに位置しているのか。

 その位置は、すでに自分だけでは見つけられなくなっていた。だから、彼の傍に居た。彼の居る場所が現実だと、道標のように、手を引く存在として。
 彼に、傍に居て欲しかった。
 触れる髪も体温も、聞こえる声も見える表情も、全てが現実に引き戻してくれる。
 ただそのことに、彼は気付いていない。気丈に振舞う自分には有難くもあり、本音で言えば悲しくもあった。知って欲しいとは思わなかった。これ以上押し付けては可哀想だと、思って。

 伸ばした手が、ほとんど無意識に触れた頬の感触。自分が感じると同時に、彼も何かを感じたらしく、彼はゆっくりと目を開けた。
 起こしてしまったと少し後悔をして、どうかしたのと問う少年に、なんでもないと微笑んで応えた。彼は微笑みを返して、両手で抱きついてきた。
 自分にとっては、嬉しくないわけではないが、何かをされることまでは望んでいなかった。彼のやりたいことならば、甘んじて受け入れる。それだけだった。
 彼は気付かずに、言葉を並べた。
 「愛してる」。「大好き」。
 そんなものが欲しいんじゃなくて、ただ傍に居て欲しいだけなのに。
 気付かないままの彼に、何も言わずに笑う自分が居た。
 自分の傍に彼が居て、二人で時を過ごし、笑い合い、こうして共に眠った。そうしている時間が、自分を救い、同時に自分の世界を破壊していった。

 ああ、本当に天国に至る階段があるとすれば、自分の前にはもう何段も無く、その扉が見えることだろう。
 何故ならば、この身を滅ぼしてでも彼の傍に居たいと思う自分が、強くなりすぎてしまったから。

雪の声

 轟々、と風の音が室内でも分かるほど、外の天気は荒れているようだった。時々パラパラという音も混ざっているので、何かが降っているということも分かろう。それに眠りを妨げられている人も少なくはない。
 だがそれ以上に、今日、という日ならば、雨風の音以外の理由でまだ目を覚ましている人も、大勢いたようだった。


 朝。外は千切れた雲がものすごい速さで流れているものの、青空が見える晴れに近い天気だった。そんな空の下、西の都は、一面雪が積もっていた。
 周り中真っ白に見せる雪は、幼いトランクスが喜んで外に出て行くには十分な量だった。
「わぁ、すごいよ母さん!」
 防寒具を身につけたトランクスは、自分の膝まである雪をかき分けて歩いた。母親であるブルマは、白い息を吐き玄関の前まで出て、元気な息子の姿を見守っている。
 トランクスはぼふぼふと独特の音を立てて雪を潰しながら進んでいく。冷たい、とはさして感じていないらしく、手袋をはめた手いっぱいにすくい上げた。
 突然、突風が吹いた。すでに降り積もっている雪を巻き上げるほどの風に煽られ、足が半分ほど埋もれていたトランクスはバランスを崩して転倒してしまった。とはいっても雪の中ではあったので、大して痛くはないだろうが。
 しかし、顔が埋まるように転んでしまったトランクスは、その痛みを伴うほどの冷たさに泣き出しそうになった。
 だが、上から降ってきた声を聞くと、泣くことなどすっかり忘れてしまったようだった。
「大丈夫か?トランクス」
 優しい声にトランクスががばっと顔を上げると、望みの人、悟飯がコート姿で立っていた。
「悟飯さん!!」
 トランクスはたちまち笑顔になり、起きあがって手を差し出した。その意味を解した悟飯はトランクスの脇を掴んで抱き上げ、まだ顔に付いていた雪を払ってやった。
「トランクス、明けましておめでとう」
「…あ!あけましておめでとう!」
 悟飯に言われて気づいたらしいトランクスは、一歩遅れて挨拶を返した。悟飯は家の前に立つブルマにも、おめでとうございます、と一礼して、トランクスを抱えたまま歩み寄った。
 トランクスはまだ遊び足りないようで、悟飯の腕の中でそわそわしていた。
「おめでとう、悟飯君。それにしても寒そうな格好ねぇ」
「…そうですか?一応コートは着てきたんですが」
「うーん、いいけど、風邪引かないでよ」
 ブルマに言われ、悟飯は自分の姿を改めて見た。
 コートは着ているが、他にマフラーや手袋といった類の防寒具は何一つ無い。ブーツはいつもの修行用である。そもそもコートの下に着ているのはいつも通り胴着である。
 それでも、悟飯自身は寒いと感じていないらしい。
 トランクスは、何をするでもない大人二人の動向に飽きてしまったのか、悟飯の服を引っ張って主張した。
「悟飯さん、遊ぼうよ」
 口を尖らせて言うトランクスを微笑ましく思い、悟飯は知らず笑みが零れた。それじゃあ遊ぼうか、と言うと、トランクスはぱっと明るくなって悟飯の腕から降り、また雪の中を進んでいった。
「それじゃ…ちょっと相手してきますね」
「ええ。悟飯君が付いてるなら安心だわ。暗くならない内に家に入ってらっしゃい」
「はい」
 二人はそれだけ会話を交わすと、ブルマは家の中へ、悟飯はトランクスの元へとそれぞれ別れた。
 悟飯がトランクスの傍まで来ると、トランクスはそれまで遊んでいた雪から手を離して悟飯をじっと見上げた。
「どうした?」
「…悟飯さん、ちょっとまってて!」
 トランクスはそう言うと悟飯の横をすり抜けて家の中に入っていった。
 悟飯が不思議そうな顔で待っていると、やがてトランクスは家から出てきた。その手には、大人用の手袋が握られている。その手袋を悟飯に差し出して、トランクスは言った。
「悟飯さん、これつかって」
 その行動に悟飯は驚いて、腰を下ろして改めてトランクスを見た。
「どうして?」
「だって、ゆきはつめたいし、悟飯さんがさむそうだから」
「……そう、か」
「ほかにもいっぱいつかってほしいけど、これしかないから…」
 ごめんね、としゅんとしているトランクスの、悟飯は微笑んで頭を撫でてやった。
 その純粋さが、嬉しかったのだ。
「ありがとう。トランクスは優しいな」
 そう言われて撫でられることに、トランクスは嬉しくなって、へへ、と照れ笑った。
 悟飯はトランクスに渡された手袋をして、トランクスと雪に触れ、本当に楽しく遊んだ。

 そうして少し日が傾くまで遊んでいると、トランクスは元気がなさそうに悟飯に飛びついた。
「悟飯さぁん…」
「ん?疲れた?」
「うん……」
 疲れたどころかすでに眠くなっているらしいトランクスは、悟飯の腕の中でうとうとしかかっていた。
「それじゃ、今日はもう帰ろうか」
「うん………」
 それだけ返事をすると、トランクスはそのまま目を閉じ、寝息を立てて出した。悟飯は苦笑してトランクスを抱え直すと、家に向かって歩いた。
 雪はもうだいぶ溶け、水分を含んで重たく横たわっていた。
「…今年もよろしく、トランクス」
 眠っているトランクスに囁くと、悟飯は明かりの付いた家に入っていった。

幸噛

 空は貫けるような青空で、雲ひとつなく太陽が煌いている。その下を歩く悟飯は、弟子であるトランクスを探していた。
 修行の合間、休憩と称して解散したはいいが、時間になってもトランクスは帰ってこなかった。騒ぎがないところを見ると、大事にはなっていないようである。だが、普段は遅刻などしないトランクスが心配になり、悟飯は林の中を歩きながら見渡していた。トランクスの気が一切感じられないため、気を探ることができない。木が邪魔で飛んで探すこともできない。散歩がてらにはちょうどいいと、悟飯は木漏れ日の中を歩いた。
 薄い葉の合間を縫い、暑いくらいの日の光は地面へと注がれる。風が涼しいと感じるほどである。葉の擦れる音は耳障りよく響き、爽やかな緑の匂いが届く。良い日だった。
 こんな日に人の声を通すのは趣に欠けると思い、悟飯は黙ってトランクスを探した。揺れる紫の髪を見つけたのは、しばらくしてからだった。

(ああ、いた)

 悟飯は異色の存在に近づき、ふと足音を消した。安らかな寝息を立てるトランクスは、木の根元で転がっていた。その人を目で確認して安心した悟飯は、苦笑を漏らした。よほど疲れているのか、その苦笑を混ぜた溜め息にも気づかず、トランクスは眠り続けた。
 悟飯はトランクスの隣に膝を折り、肩を揺すった。起こす気があるのか、優しく撫でるような揺すり方だった。

「トランクス、そろそろ起きたらどうだ」

 声も、表情も優しく、悟飯は彼の名を呼んだ。ゆらゆらとゆりかごのように肩を揺する仕草も、いつの間にか頭を撫でるものに変わっていた。トランクスは起きない。
 しょうがないね、と独り言を漏らした悟飯は、トランクスの隣に本格的に座り込んだ。頭を撫でるのは止めない。さらさらした髪は風と悟飯の手に遊ばれて、右へ左へとせわしなく動く。
 悟飯の指が髪を掻き揚げるように額に触れると、トランクスは始めて反応を返した。痙攣のような、呻き声のような。小さな反応だったが、悟飯はそれに気づいてゆっくりと髪を退けた。

(怪我、してたのか)

 かすり傷だった。修行でいつも負っているような、大したことないものだった。そこまで痛くはないだろう。本人も、もしかすると気づいてすらいないかもしれない。小さな怪我。悟飯は目を細めてその怪我を見た。
 痛そうだな、と思った。早く治るように、と。
 地に手を着いて屈み、額に唇を落とした。
 う、と耳に届く呻き声を上げ、トランクスは額の痛みから逃げるように寝返りを打った。悟飯はそれを邪魔しないようさっと身を引き、微笑む。むこうを向いたトランクスの服には芝がくっついていた。そんな彼の後頭部を見て、笑う。ああ、なんだ。と。
 悟飯は天を仰ぎ見、眩しく感じられる空を眺めた。良い日である。修行をするにも良い日だが、それ以外のことをするにしても良い日である。たとえば昼寝にも、こうしてぼんやりしているにも。
 トランクスは時折もぞもぞと動き、その気配は悟飯にも届いていた。トランクスが起き上がるまで、しばらくこのままでいようと、緩やかな時間を噛みしめた。

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