僕は、知っているよ。
走って、走って、走って。
疲れはしないけれど、終わりの見えない道をひたすら走っていく。光はなく、鈍い視界に人の姿がぼんやりと見えるだけで、音といえば僕の足音と息遣いだけ。
暗い水底にも似た深い色の、その道にはどこにも君がいた。でも、誰も僕に見向きもしないで。
そんな中を、ずっとずっと僕は探していた。
見つからなくて、どうして、と泣き叫びそうにもなる。もうどれだけ走ったか分からない道を、でも決して立ち止まらず、振り返ることはなく進む。立ち止まったら、振り返ったら、僕を拒絶した君がこちらを睨んで、来るな、と酷い言葉を投げかける。
僕はそれが怖い。
拒絶されるのが、受け入れてくれないのが、凄く怖い。
いつも、君は僕じゃない他の誰かに笑いかけていた。君はいつまでたっても僕を許容してくれない。
君は、どうして僕を助けてくれないの?僕は、こんな暗い道で、ずっとずっと、待ってるのに。
ずっと、ずっと、走ってるのに。
僕は、このまま消えるのかな。
実感はないけど、そうなったらどうだろうかと考えて、とても怖くなった。
どんな風に消えるんだろう。その時僕は、何を思っているんだろう。ここから消えて、どこに行くんだろう。
そんな風に考えていたら、道の向こうの、ずっと向こうに、小さな光が見えた。優しくて、暖かくて、少しさびしい、そんな光。
やっと見つけた。
僕はあれを探して、求めていたんだ。もうすぐそこ、手を伸ばせば、掴むことができる……!
「うわ!?」
「え!?」
無我夢中で走りぬいた、その勢いで君に抱きついた。背の高い大人の君は、見覚えのある山吹色の胴着を着ていた。離すまいと、その胴着をぎゅう、と掴む。
君の困惑したような声は、意味を成さずに僕の耳をすり抜けていった。
「だ、大丈夫?どうしたんだい?」
「……た…」
「え?」
見つけた。見つけた。
ずっと探していたんだよ、君のことを。ようやく、僕は見つけられたんだね。
僕を受け入れてくれる僕を。
ああ、とても暖かい。何だか、とても疲れたみたいだ……。
「ちょっと、君!?」
ふっと力が抜けて、最後に耳に入ってきたのが、その声だった。
*****
意識が浮上して目をうっすらと開けると、見たことのあるような、少しヒビ割れのある天井が飛び込んできた。
「眼が覚めた?」
優しい男性の声が、横から聞こえた。そちらを向くと、体躯のいい黒髪の男が、椅子に腰掛けていた。
僕だ。
思うと同時に飛び起き、抱きついた。制止の声もままならないうちに。
じん、と頭に鈍い痛みが走り、目に光の洪水が起こったようだった。痛いというよりも、苦しい。もう一度意識を失いかけた。目の奥がくらくらする中で、困ったような声がやけに遠くから聞こえる。
「まだ起きちゃ駄目だよ」
やんわりと引き離そうとする腕を無視して、僕は無我夢中でその服を掴んだ。
痛みを何とかやり過ごして、顔を見た。
短く切ってある髪、優しそうな笑顔。黒くて大きい目は強くて、笑顔と同じように優しいけど、その奥に何か燻る感情を持っている。激情、と言っていいのか分からないけれど、そんな瞳。
そんな彼を見て、僕は……、僕は?
「名前、聞いてなかったな。俺は孫 悟飯。君は?」
俺、なんて言うのか。少し可笑しいな。
君は僕をベッドに戻すのを諦めたみたいで、代わりにシーツを引き寄せて僕を包みながら言った。
頬や額を撫でる手は大きくて暖かくて、安心できたけど、その問いに答える元気は今の僕にはなかった。君もそれを察してくれたらしい。少し息をつき、答えなくてもいいと言うように、一人で話し出した。
「……君は、不思議な子だね。突然現れて、俺に抱きついてきたから驚いたよ。すぐに気を失うし。それで、ここは俺の知り合いの家なんだけど、君を運ぼうとしたら、俺と一緒にいた子には君は触れなかったんだよ。君に体をすり抜けてね、あの子じゃ運べなかったんだ。俺は触れるんだけどね、今みたいに」
僕はその声を聞きながら、ぼんやりとしていた。ちょっと眠たくて、もしかしたらまた寝てしまうかもしれなかったけど、頑張って聞いていた。多分寝てしまったら、また引き離されて、ベッドに戻されてしまう。
小さく、ドアが叩かれる音がした。ほんの僅か開いたドアから、頭と肩、目がこちらから見えるくらい現れた少年。ドアに体を挟んで、こちらの様子を伺っているのか、了承を待っているのか、動こうとはしない。
薄い青のような、紫のような、さらさらとした髪。そんな髪を持つ人を、僕はつい最近とてもよく見知った。
五感が閉鎖しかけている。声は聞こえているのに、何を言っているのかよく分からない。ドアに挟まっていた少年は、僕が抱きついている人の隣に立っていた。
「大丈夫?」
虚ろになりかけていたのを引き戻されて、はっとして見ると、少年の顔が間近にあった。こくりと頷くと、彼はよかった、と言ってそのまま顔を離した。その顔はどこか満足そうで、僕はちょっと後ろめたく思った。
大丈夫じゃないわけじゃないけど、ちゃんと大丈夫なわけじゃない。
僕の意識はまた沈んでいった。
*****
僕は何を聞かれても何も言わなかった。
本当のことを言ってもきっと信じてくれないだろうし、……彼らなら信じてくれたかもしれないけど……、嘘をつくのも嫌だったから。
そして、僕は。
「ねえ、ちょっとだけでいいから、放してくれないか?」
困った笑顔と、困った声が僕に投げかけられた。
僕は誰にも触ることができなかった。それは多分ここにいる僕は、僕の体がない僕だからで、僕にとっては何も不思議はなかった。彼らには不思議に思えたみたいだったけど。
でも、だからこそ何か、ここにいる実感が欲しかった。そんな実体のない僕が、またいつか消えてしまうんじゃないかと思うと、たまらなく不安で、怖かった。
僕はずっと僕である君に触っていた。抱きついていた、と言ってもいい。僕は君にだけは触ることができるから、君に触れることで、ここにいる実感を得ていた。
その困った顔は、やっぱり僕のことを迷惑に思っているみたいで、でも、君は決して突き放したり、怒ったりはしなかった。修行をしないといけないと言っていたのに、そしてその理由も僕は知っているのに、それでも僕の不安を取り除いてくれるように、君は優しく僕を認めてくれていた。
どちらかというと、君と修行をしたがっているあの子の方が怒っているみたいで、僕が君にしがみついているのを嫌そうにしていた。
「しょうがない、トランクス、お前だけで修行してきな」
「ええ!でも悟飯さん……」
何か言おうとするのを、ごめんな、と笑顔でかわして、君は僕といることを選んでくれた。
そのことが、時々僕の胸をちくり、と攻撃する。
きっと僕はここに居てはいけない存在で、居るはずのない存在のはずだった。でも、それを実感するのが凄く嫌だったのも確か。結局、いけないことなのに、僕はこうして留まっている。
いや。違う。
僕は、留まることしかできなかったんだ。ここから抜け出て、他の所に行く、そのやり方を知らなかったんだ。
ずっと、ずっと、この人と一緒にいたかった。でも、こんな不安定なままで、いつまでここに居るのか……ここに居られるのか、そう思うとたまらなく不安がこみ上げてきた。
一緒に、いたいのに。それが、いけないことだなんて。
あんまりだよ。
*****
うとうとと、山吹の膝の上で眠りかけている僕を、大きな手が優しく撫でてくれた。部屋には僕と君だけ、ベッドの上でのんびりと時を過ごしていた。
小さなノック音がして、誰かが部屋に入ってきた。僕が寝ていることに気づいて小声で話す主は、女の人。
「その子、眠った?」
「ええ」
そう、と言った後、部屋の中に沈黙の時間が流れた。何だか居心地が悪くて、僕は身を捩った。
それを合図にしたように、二人は話し出した。
「その子、本当に何もしゃべらないけど、何か分かった?」
「…何となく、感じているだけですけど」
「ホント?…どんなこと?」
少しの沈黙が続いた後で、君は話し出した。僕が起きていることに、気づかないで。僕が最後の方に、泣きそうになっていたのにも気づかないで。
「…この子は、多分俺だと思うんです。どういうことかと聞かれると、ちょっと困るんですが…俺の過去か、精神がそのまま抜け出てしまった、だから俺だけが触れるんじゃないかと感じています。
だったら俺の中に戻せばいいのかなって漠然と考えていたんですが、どうもそういうわけではないみたいで。…この子、喜んだり、楽しんだり、しないじゃないですか。笑うことも…それができないんじゃないかって、思ったんです。
過程の話ですが、この子には片割れの本体がいて、その子は喜んだり楽しんだり、この子にできないことができる。逆に、負の感情とでも呼んでいいものは、全てこの子が背負ってしまっているような気がするんです。
そこで思ったのが、この子がちゃんと笑えたり、喜べたり楽しめたりできたら、きちんと元通りになるんじゃないかなって。勿論、俺の想像の域を超えませんが」
*****
深夜、僕はベッドを抜け出て、誰もいない空に向かった。高く高く、雲の近くに、月が近くに見えるまで。
それから、ちょっと止まって地上を見た。暗いけれど、僕が生きてきた世界とは違う、破壊された町がうっすら見えた。それは、とてもさびしい世界に見えた。
僕の世界とは違う。この世界は、彼らのものだ。
この世界から、離れないといけない。僕は、ここにいてはいけないんだ。彼の言葉を思い出して、僕は思った。
「……笑え」
…この子、喜んだり、楽しんだり、しないじゃないですか。笑うことも…それができないんじゃないかって、思ったんです。
「笑え。笑え、僕」
そこで思ったのが、この子がちゃんと笑えたり、喜べたり楽しめたりできたら、きちんと元通りになるんじゃないかなって。
「笑えよ……っ」
笑わないといけないのに。何で、僕は泣いてるんだろう。ぽろぽろと、ぽろぽろと、どうして涙が溢れてくるんだろう。笑えと、呪文のように繰り返しても、ちゃんと笑えない。余計に涙が出てくる。
涙をぬぐって、もう一度笑えと言って、無理に顔を引きつらせても、どうしても思ってしまう。
悲しい、と。
「悲しくなんかない、怖くなんかない…僕は…僕はっ……」
僕は、何?
僕は、何を思っているの?
「…どうしたの?」
声に反応して、僕は振り返った。薄紫色の髪の少年が、その髪を月光で輝かせて、僕と同じように飛んでいた。彼は心配そうに僕を見て、繰り返した。
「どうしたの、こんな夜中に」
いつもみたいに、敵意を持っていない、優しい声だった。そう、『彼』の声に似た響きを持っていた。心配そうな顔で、困ったような表情を浮かべて、僕の方を伺っていた。
きっと、僕のあとを追ってきてくれたのだと思う。僕はそれでも泣き止めなくて、慌てる彼に申し訳ないと思いながら泣き続けた。
すると、彼が僕の頭を撫でてくれた。
彼は僕に触れないし、僕にはその感覚もないけど、でも、確かに手が僕の頭を撫でていた。慰めてくれているのが分かったし、その手にとても安心した。おかげで、ようやく涙が止まった。
「…ありがとう」
僕は小さな声で、本当に、蚊の鳴くような小さな声でお礼を言った。彼はそれでも聞こえていたみたいで、にこりと笑ってくれた。
その笑顔につられて、僕も少し顔がほころんだ。
その時だった。
「!?」
「この気……悟飯さん!?」
巨大な気を感じ取った。それは僕の気のようでいて、少し違うものだった。こんな巨大な気を放出することは、全力で闘う以外にありえない。
ほとんど反射的に、僕らは二人でその気が発せられる方角に飛んでいった。
導き出される答えは、一つだった。
「また、人造人間が!」
*****
朝の訪れを日が知らせ、一陣の風が廃虚と化した町に吹き抜ける。そこには人っ子一人いなくて、恐ろしい光景だった。
その中にたった一人、置き去りにされたように倒れる人がいた。山吹色の胴着はとても目立って、どこにいるのかすぐに分かり、僕らは駆け寄って行った。
目を閉じたままのその人は、傷だらけで血まみれで、青白い顔でコンクリートの上に倒れていた。見目には、生きているのかどうかも分からない。気を感じようとしても、ほとんどゼロに近い。
僕の隣に立つ少年が、君に縋りついて体をゆすった。名前を呼んで、まるで眠った人を起こすように、少し乱暴にしていた。
目を覚まさない君に、彼は段々と涙声になっている。僕はどうしたらいいか分からなくて、とりあえず君に少し近付いた。少年の隣に座って、君をただ見ていた。
ゆっくりと、君が目を覚ます瞬間を目撃した。その弱くなった瞳は抱えている少年を、僕を見て、少しだけ笑った。
「悟飯さん!!」
「……ああ…大丈夫、だよ…」
掠れた声で、名前を呼ぶ彼に答える君は、とても大丈夫そうに見えなかったけれど。
君は僕を見て、やっぱり優しい顔で笑ってくれた。
「君も…来てくれたのか…。……ありがとう」
ありがとう。
「……ありが…とう」
その言葉に、目を見開いた。目に涙を溜めて、その笑顔がおぼろげになるのを見ていた。
僕は、嬉しくて、嬉しくて。
少し泣きそうになったけど、心から『笑顔』になった。
心が、胸がとても暖かくなった。胸だけじゃなくて、体中が暖かくなって、何かに包まれているような感じだった。
僕の目の前では、二人が驚いた顔をしている。目の前は何だか眩しくて、僕は目を細めながら、やっぱり笑った。
すると、僕の見ている前で、傷だらけだった君が光に包まれた。光ったのは一瞬だけで、すぐ後には元に戻っていた。光が消えると、君の体の傷が、全て消えていた。僕も、二人も、みんなそれには驚いた。
君は起き上がって、僕の方をまだ驚いた顔で見ていた。その後は、すごく嬉しそうな笑顔になって、僕に言った。
「…ありがとう、悟飯」
僕の名前を、呼んでくれた。
やっぱり、君は僕を受け入れてくれていたんだ。それがとても嬉しくて、僕は何とかその気持ちを伝えようと思った。でも、たった今君が言ったことと同じ言葉しか考え付かなかった。
だから、同じ言葉だけど、その言葉を伝えた。
「ありがとう。…悟飯」
段々と強くなっていく光に、僕はとうとう目が耐えられなくなって、ぎゅっと目を閉じた。
最後に僕の瞳に映ったのは、君の笑顔。一筋の涙が頬に流れたのが、最後の感覚だった。
きっとこの世界に訪れるのは、悲しみと、恐怖と、怒りと、たくさんの負の感情なんだと思う。
でも、僕は知っている。この世界はこんなにも優しくて、暖かいということを。
僕が感じたあの光は、喜びは、嘘じゃないということを。
|