悲しいことに、一心に優しい愛情のみを他者に与えることは不可能である。どれほど愛する人であっても同じことである。むしろ、その愛が真実でかつ純粋あればあるほど、愛の形はその人の中で分岐する。それはまた、時の流れとも比例する場合が多い。ただし、これらはあくまで仮説であり、すべての人がこれに当てはまるとも言いがたい。
即ち、己の愛情はこの仮説に当てはまるものではなく、ただただ、かの人に「優しい愛情のみ」を与えることができるのだという幻想である。そして、その人がそれを幻想であると認識していないところに喜劇性と悲劇性を持ち合わせ、物語は始まるのである。
この人は「男」で「同僚」で「妻子を持ち」「自分を気のいい友人と思っている」。
ほら、これだけ要素が揃えば、自分の想いが叶う可能性など一パーセントにも満たないことはよく分かる。
「……それで、昨日娘がこれをくれたんです。学校で作ったと言って」
「へえ、可愛いぬいぐるみですね」
「えへへ、ありがとうございます」
この人が好きだ、という想いを持ち始めたのは、いつの頃からだったか。それを正確に思い出すことができないくらいには、昔のことだった。初めはそれを何かの間違いだと否定したように思う。否定を覆されたのも、同じく思い出せないくらい昔のことだ。そして、面倒なのでその後の紆余曲折は省略し、現状維持という今の状態に至るのである。
現に今も、自分の前にいるこの人は嬉しそうに娘の話をしている。それを自分は笑いながら聞いている。この笑顔は半分嘘だが、もう半分は本当だ。この人が嬉しそうな顔をしている。それだけで笑うことができる。想いが叶うことはないのに、なぜかそれほどまでに満たされているのだ。
幸せを願った。それ以外にできる術は、何もないような気がした。だから、この想いが叶わなくても、この人の幸せを願い、この人が幸せであってくれるのならば、それで十分だと思った。
それが、本当に愛している人だからこそできる愛情表現だと思った。
そう、思っていた、ある日のこと。
二人で飲みに行く機会があり、特に大事とも捉えずにこの人に付いて行った。ただ、この人の数多い友人の中で自分が選ばれたということは、少し嬉しかった。
「……だからって、ソッコー酔いつぶれるのは如何なものかと思いますよ」
「えへへー大丈夫ですよ、酔ってませんってー」
「酔ってます酔ってます。ほら、タクシー拾いますから、早く家に帰ってください」
「いーやー。泊めてくださいよー」
「……はいぃ?」
がしりと首を捕まえた腕は意外と強くて、酔っ払ったこの人は泊めてくれと騒いでいる。
どうしたものかと思案していると、突然首から離れていき、今度は手を取られた。お家はどちらですか、とニコニコ笑いながらその手を引っ張る。大の男がおててつないで、なんて状況は傍から見れば可笑しいだろう。が、もっと可笑しいのはそれだけで赤面しそうになる自分だった。
今この状況で自分の部屋に泊めたらどうなるか(理性的な意味で)分からないわ、この人は帰るという選択肢を放棄しているわ、(他の奴ならいざ知らず)この人だからこそその辺に放っておくわけにもいかないわ。悩んだ末の究極の選択は、そこらのビジネスホテルにこの人を放り込むことだった。
時間的に厳しかったが、何とか部屋を取ることに成功し、部屋の中に押し込めた。とりあえずこの人が寝付いてから帰れば、朝になれば大丈夫だろう。今は酔っ払っているが、素面になれば子どもではないのだから。
ベッドの上で横になっている彼は、ごろごろとその寝心地を確かめるように転がっている。そうして寝ようとまどろんでいた目が、こちらを見た。
「あれー? 寝ないんですか?」
「ええ、私は今日はここで」
「そーんなこと言わずに一緒に寝ましょうよー」
この人は一体自分がどれだけの爆弾発言をしているのか分かっているのだろうか。分かっていないことは分かりきっているのだが。
ねー? と言って笑う。
じん、と頭の奥でなにか熱いものが生まれ、衝動的に彼に歩み寄った。
そして、その唇に唇を重ねた。
「……? どうしたんですかー?」
「……!!」
そんな行動を取った自分自身に驚いて目を見張り慌てて彼から離れた。彼は気にした様子もなく、そのまま まどろみ寝入ってしまった。
まだ、頭の奥が熱い。
そんなつもりは無かったのにと思いながら、その続きを期待する心がある。
それでもどうにかその場を離れ、部屋を出ることには成功した。後ろ手でドアを閉め、そのドアにもたれかかり、ずるずるとしゃがみ込む。頭の奥で燻っている熱を吐き出すように溜め息をつき、頭を抱えた。悩むことはたくさんあるが、とりあえずこのことを明日あの人が覚えていたらどうしよう、である。
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