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街に吹く風

 この荒廃した街で、一番高い地。倒壊しかけたビル群に残る、三十階建てほどの建物。そこはトランクスがいつも修行に行っている山などに比べれば大した高さではなかったが、確かに一番高い場所だった。
 そこを目指して、登ってみたいと思った。
 大した意味はないだろうと思う。トランクス自身は空も自在に飛べるし、空気さえあればどこまでだって高く飛べた。
 だから、そんな高さのビルなど、簡単に追い越せることができる。大した意味はない。
 でも。

「悟飯さん、早く早く!」
「はいはい」

 電気など付くはずもなく、窓から日も差さない暗い階段を登る。トランクスが先に立ち、半階上からゆっくり上がってきている悟飯を見下ろした。
 壊れそうな手すりから身を乗り出しているトランクスに、悟飯は危ないよ、と声を掛ける。
 それでもトランクスは満面の笑顔で、手招きをして悟飯を待っていた。悟飯はそんなトランクスに、半ば呆れるような顔をしていたが、微笑ましく思って近づいていった。
 そうして隣に並んだと言うのに、トランクスは待ちきれないというように、また悟飯を引き離して階段を駆け登っていった。
 トランクスの足が階段を踏み、離れるたび、白いケムリが巻き上がった。ふわり、と粒子が浮いて、すぐに重力に従って静まる。
 ただし、前の段のそれが静まる前に、上の段でまたケムリが巻き起こる。
 それは、思い切りよく飛び立つときの、砂埃に似ていた。
 早く上まで行きたいのなら、わざわざ階段など使わずに外から飛んでいけばいいのに。
 少しだけそう思う心があったが、悟飯は口に出さずにいた。何か、理由があるのだろう。
 階段は所々足場が崩れていて、埃や瓦礫が登る二人の邪魔をするように道を塞いでいた。時折それらに足をとられてバランスを崩すので、悟飯は下を見ながら登っていた。
 対してトランクスは、どういうわけか下を見なくても、上を向いていてもしっかりした足取りで駆けるように登って行っていた。
 慣れているのか。
 そんな考えが悟飯の頭に浮かんできた。

”一緒に来てほしいところがあるんだ”

 そう言ったときのトランクスはためらいがちに、嬉しそうに、期待と不安を顔に出していた。
 この場所が、この建物が来てほしい場所だとしたら、何が理由なのか悟飯にはさっぱり分からない。ただ、上へと急かすトランクスを見ていると、よほどのものがあるのか、とだけ思っていた。
 トランクスはまた先に行って見えなくなっていたが、追いつく前に悟飯は一息ついた。階段ではより足場が悪いので、階の間の踊り場で膝に手を付いた。そこまで疲れているわけではなかったが。
 踊り場にはどの階にも窓があった。階によっては、ガラスが割れている所と、そうでないところがあった。もしくは、窓枠ごと抜けているところも。
 悟飯が辿りついた階の窓は割れていた。残ったガラスの破片は砂などが付着して白く濁った色をしている。
 そこに鈍く反射する光が、目に痛かった。
 外は見慣れたこの町の、どこにでもあるようなビル群の廃墟。高さから察するに、十階はすでに登ってきているだろうか。

 今までなかった風が、不意に。

「うわ…っ」

 ガラスの割れた窓から、切るような強い風が吹き付けた。埃や粉塵を巻き上げて吹く風に、悟飯は思わず声を上げた。とっさに腕で顔をかばい、しばらくの間の風をやり過ごした。
 だが、風がおさまっても、悟飯は腕を下ろすことができなかった。動くことも、できない。
 なかなか上がってこない悟飯を不審に思い、トランクスは彼を呼びながら一度登った階段を下りていった。近づきながら、心配そうな声で問いかける。

「どうしたの、悟飯さん?」
「っごめん、目に、ゴミが…」

 大丈夫?とトランクスは慌てて、悟飯が己の顔を覆っていた腕をどかした。
 悟飯は眉を寄せて、薄く開いている目は涙を含んで潤み、今にも滴が落ちてきそうだった。
 一瞬、心臓が揺らいだ。
 不謹慎だと分かっていながら、その涙に釘付けになっていた。
 はっ、と我に返ると、トランクスはわたわたとズボンのポケットに手を突っ込み、右手に当たった緑のハンカチを取り出して、悟飯の左頬に当てた。

「悟飯さん、良かったら使って?」
「う…ん、ありがとう…」

 悟飯はトランクスからハンカチを受け取ると、自分の目に押さえつけた。立ったままだと良くないと思い、トランクスは袖を引っ張って、悟飯を階段に座らせた。トランクス自身はその隣に座る。
 しばらく、トランクスは何も言わなかった。
 少しだけ、後悔していた。
 廃虚と化した街は、建物の跡が無造作に倒れたり残っていたりするので、時折廃虚の狭間を通った風が強く吹き抜ける。それは人に、いや、さまざまな動物に対して暴力的だった。
 そんな風は、誰にもお構いなしに、建物の中にまでも。だから、そんなつもりはなくても、悟飯を傷つけてしまった。
 トランクスは俯いて、悟飯が大丈夫、と言うのを待った。
 日は高く上って、窓から日光はほとんど入ってこなかった。影になっている室内は、空気が少しひやりとして心地よく、居心地はそこまで悪くなかった。
 トランクスはずっと俯いたままだったが、ふわり、と空気が動いたのを感じて顔を上げた。
 こちらを見ている悟飯と目が合った。

「ありがとう。もう、大丈夫」

 立ち上がった悟飯は、トランクスを見下ろして微笑みかけ、ハンカチを返そうと差し出した。だが、トランクスが受け取る前にすぐにその手を引っ込めた。

「あ…ごめん、洗ってからの方がいいか」

 大丈夫、と言おうとしたが、悟飯があまりにあっさりとそのハンカチを自分のポケットに納めてしまったので、トランクスはタイミングを逸してしまった。仕方なく、そのことは口に出さずに、トランクスも立ち上がって悟飯を見上げた。
 互いに座っているときよりも、目線の位置が違う。
 広がってしまった差に、トランクスは少し残念に思った。
 悟飯の目はまだ赤いが、両目はしっかりと開いて、トランクスを見下ろしていた。
 トランクスは歩き出す。今度は、ゆっくりと。悟飯はその後に続いて、やはりゆっくりと階段を上った。悟飯が心配だったのもあり、トランクスは時折悟飯のことを振り返って見た。
 一段、二段トランクスの方が上を行く、その状況で彼は悟飯を見下ろした。だから、トランクスの方が目線が高い。

 愛しい、と。

 不意に、そんな思いが胸に湧き上がった。
 例えば。
 例えば、自分の方が彼よりも先に生まれてきていたら。自分はこのくらい背が伸びていただろうか。
 大きくなりたい。早く大きくなって、強くなって、早く。

 トランクスは、少しだけ気を込めて宙に浮いた。その行動に、悟飯が不思議そうに見ている中、トランクスは彼の目線より高い位置で止まった。
 浮いていることも、悟飯に近づくことも容易いことで、トランクスはそのどちらもをやってのけて、悟飯の首に腕を回した。
 顔を、彼の肩に埋めて。

「悟飯さん」
「うん?」
「僕、絶対早く大きくなるからさ」
「……」
「僕が追い付くまで、ちゃんと待ってて?」

 そう言って、トランクスは顔を上げて、悟飯の唇に軽くキスをした。悟飯はそれに驚くでもなく、ただ不思議そうにしていたが、ふいに顔をほころばせた。
 トランクスの目に映る悟飯は、笑っていた。

「…それじゃあ、楽しみにしているよ」

 優しく、甘く微笑んで、言った。
 本当は。
 きっと悟飯は、自分の言った言葉の意味を取り違えていると思ったけれど。
 そういう意味じゃないのにとか、もうそんな子供じゃないんだとか、ぼやく声は心にしまった。
 代わりに、「楽しみにしている」と言った唇を塞いだ。
 ちょっとした、反抗のつもりだった。

 屋上は意外と壊れている部分も少なく、落下防止のフェンスまで回り中に残っているくらいだった。日は少し傾いていたが、空にはまだ青が広がっていた。
 下に広がるのは灰色の街だけれど、上には青空、前には近くの山の緑。障害なく吹く風は、階段で吹いていたものとは比べ物にならないほど穏やかに、二人の髪をなびかせ、頬を撫でていった。
 階段を登って疲れて、少し汗をかいた体に、心地いい。
 悟飯は目を閉じて、深く息を吸った。

「…いい所を見つけたね」

 息を吐き出しながら、悟飯はトランクスに向かって言った。トランクスはそれに対して、大きく頷いた。

 連れて来てよかった。

 この荒廃した街で、一番高い地。倒壊しかけたビル群に残る、数十階建ての建物。そこはトランクスがいつも修行に行っている山などに比べれば大した高さではなかったが、確かに一番高い場所だった。
 そこを目指して、登ってみたいと思った。
 大した意味はないだろうと思う。トランクス自身は空も自在に飛べるし、空気さえあればどこまでだって高く飛べた。
 だから、そんな高さのビルなど、簡単に追い越せることができる。大した意味はない。
 でも。
 そんな風に一番の場所だから、何か特別なものがあるのではないかと思って、登ってみた。
 壊れかけの階段を登るのはしんどい思いをした。時々壊れた窓から入る風に、登るのを阻まれた。
 最後まで登りきって、今よりもっと体力がなかったから、本当に疲れきって屋上に来て。
 この風を、感じた。
 修行の後に感じる清々しさに似ていて、それが大好きだったから、この街の中でも、こんな風に思えるものがあるのかと。
 この荒廃して、汚れてしまった街でも、捨てたものじゃないと、そう思って。
 そう、思ってほしくて。
 優しく吹く風に祈りを込めて、トランクスは目を閉じた。

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