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雨に掻き消えない血の臭い

 降り注ぐものを冷たいとさえも感じないのは、感覚が無くなっている所為か。
 なぜこんなにも、多量に肉体に当たるものが煩わしくないのか。
 鼓膜を刺激する音も、脳にまで到達しない。
 さむい。
 つめたい。
 腕に抱いた、このちいさなものが。

 バタバタと、差した傘に巨大とも言える雨粒が当たっていた。昼間にも関わらず、厚い雲に覆われた黒い空が、明るい青空を遮っていた。
 その黒にも負けない闇色の傘を差して、トランクスは破壊されて間もない街を走った。右を左を、前を後ろを向いて、目を向けて、気を巡らせながら。
 湿度が高い為に、額にじとっと汗をかいていた。汗の暑さがうっとうしい。それでも、風は冷たいから、頬や耳などの部位はひどく凍えていた。指先も冷たさは同様。傘の柄を掴んだ手は、時折吹く風に身を任せて侵入してきた雨によって、存分に濡れていた。
 泥交じりの水溜りを、勢いよく走って撥ねた水粒が、ズボンに染み込んで足に張り付いていた。
 気持ち悪い。
 もはや、傘は意味を成していないのかと、トランクスは走るのに邪魔な傘を畳んでしまった。
 ただし、それがもたらした効果は、雨による視界の悪化であったが。
 ずぶ濡れる髪もそのままに、トランクスは尚も走っていた。目的の人物がこの近くにいることは、間違いない。ただ、正確に位置を知る術を、トランクスはまだ身に付けていなかった。
 ぐるぐると、まだ道路として存在している道を走り回る。同じような道を行っては戻り、曲がって、止まって周りを見て、また進んで行く。
 だが、雨を避けられる建物や、屋根のある場所を探すことは無かった。何故なら彼は。
 彼は、雨が好きだから。
 暗い視界の中に、見覚えのある明るい色が目に付いた。黄色に近く、赤に近い。それを目に収めた瞬間から、トランクスはそれに向かって一直線に走った。
 バタバタと、水溜りを跳ねた。撥ねた。
 停止するために走る速さを緩めたところで、うずくまっている青年に声を掛けた。

「…悟飯さん」

 足を止めた。二人の距離はあと一歩分しかない。
 いや。正確には、二人とトランクスの間に、だった。
 悟飯の腕に抱かれていた、小さな子供。その存在に、この距離になってからトランクスは気づいた。その子を見下ろしたまま動かない悟飯を、トランクスは少し急いた口調でもう一度呼んだ。
 やはり答えはない。トランクスが彼の返事を待つ間、沈黙が続いた。
 しきりに降る雨は、トランクスや悟飯を濡らしていく。
 いつからそこにいたのか、悟飯は全身、濡れていないところなど無いような具合だった。ふわふわとはねる髪は下を向き、明るい色味の胴着は心なしかいつもより重たい色をしていた。顔は見えないが、濡れていることは確かだろう。
 腕の中に抱いた子供を、雨から避けるようにうずくまる悟飯に、トランクスは名を呼ぶ以上のことができなかった。
 怖かった。
 何が、と聞かれると、それは答えてくれないことだ。また、何と聞けば良いか分からないことだ。もしくは、間違ったことを聞いてしまうのではということだ。
 そのどれもが怖くて恐ろしくて、トランクスは名を呼ぶしかなかった。

「……悟飯さん…」

 呟きに近い声だった。雨音にかき消され、相手に届いているかも分からないほどの声だった。
 ばしゃり、と一つ大きな水音が立った。トランクスの持っていた傘が、手という支えを無くして倒れた音だった。
 それに反応するように、彼は顔を上げた。
 左顔面に傷の走る青ざめた顔は、雨で濡れていた。目は虚ろだった。半開きの唇は紫で、そこから何かを紡ぎ出そうとする気配は無い。表情が無いわけではない。悲しそうだった。
 泣いているのだろうか。それすらも、雨の所為で判らなかった。
 ただ、判ったことがひとつ。
 悟飯の抱える子供は、肩くらいの髪の小さな少女だった。雨で血を洗い流されて、傷跡すらも綺麗に見える、すっかり冷たくなってしまった、
死んだ子供だった。
 それに気づいた瞬間、トランクスは顔を顰めた。徐々に強くなる嘔吐感を押し込めて、悟飯と、その子供を見下ろしていた。
 動けなかった。少しでも動けば、吐いてしまいそうだった。
 厭だ、という感情が、胸を支配した。また、頭がそんな胸に問いかけた。
 何が、と。

「…トランクス」

 はっと、呼ぶ声に気付いた。僅かばかりだが安心できた。
 トランクスの目に映る悟飯はまだ、人形の様に動かなかった。呼ぶ声も、錯覚だったのかと思わせる様のまま。
 悟飯は俯いた。腕に抱く子供の頭を、固い手付きで撫でた。

「悟飯さん…その子…」

 続きは何も言えないのに、何かを言わなくてはと先に続かぬ言葉を言っておく。それを受けて、悟飯は一言、うん、とだけ言った。

「また、だよ」

 悟飯は俯いたまま呟いた。聞かせるつもりは無かったのか。その言葉が、果たしてそれだけ発せられたのか、または先に、後に、何か続きがあったのかもしれない。
 トランクスにはそれが判らない。だから、何も聞き返さず、じっとして待っていた。
 独り言のように呟く声が、酷く痛々しい。

「また、守れなかった」



 悟飯は人造人間を追って、時折悲鳴すら流す騒がしいラジオの鳴る部屋を飛び出した。
 辿り着いたのは、彼らが去った後の街。
 規模に比べて遥かに人の少ない街だったようで、建物だけが倒壊していて目に見える被害はそう多くはなかった。
 破壊されていない道路を道なりに歩いて行った。血の臭いが充満する街は、人の姿を悟飯に見せなかった。生きている人でも、死んでいる人でも。
 おそらく多くの人は、建物の、中。それにも関わらず人のいる気を感じないのは、その人たちが生きていない証拠だった。見かけたのは、倒壊した柱の下敷きになっている車、の中の人。赤い水溜りが、車の下に出来ていた。
 空は暗い雲に覆われだした。
 景色も同時に灰色になっていった。血の臭いに混じって、雨の匂いが立ち込めた。
 帰ろうか、と思って顔を上げた。それは偶然だった。おそらく悟飯でなければ見えなかった、道の先に見つけてしまった小さなもの。
 駆け寄ってみると、血溜まりに沈んだボロボロの少女だった。明確に彼女の上に走るのは、車に轢かれた跡だった。その少女を抱き上げると、一切の力もなく、ただ手足がだらりと重力に従っていた。
 何故だか酷い不快感を抱いた。何にかは判っているが、誰にかは判らないものに対して。
 雨が降り出した。冷たい雨は、血を洗い流してはくれたが、血の臭いまでは掻き消してくれなかったみたいだ。

 降りしきる雨に、血の臭いが染み付いていた。



「何で、俺じゃ守れないのかな」

 声は、さらに痛々しい言葉を重ねた。それを聞いていても、トランクスは答えられなかった。
 そんなにも、自分は無力なのか。
 帰ろうよ、と我慢できずにそう言った。悟飯から反応は返ってこなかった。
 聞こえなかったのか、聞こえていても帰りたくなかったのか、それはどうか知れない。だが、トランクスにはどうにも考えられなかったので、己の意志を通そうと悟飯の腕をぐいと引いた。
 当たり前だが、その腕は冷たかった。
 腕の中にいた少女が、ぱたりと地面に倒れた。それに気づかない振りをして、トランクスは悟飯を引き寄せて立たせる。
 と、悟飯は立ちくらみでも起こしたのかふらりとして、だいぶ背の低いトランクスの肩に頭を落とした。その肩に触れる頭にも、一切の体温を感じなかった。
 トランクスは悟飯の背に腕を回して、じっとりと重たい服を掴んだ。上を向くと雨が顔に当たるので、トランクスも悟飯の肩に顔を埋めた。

「悟飯さん」

 常ならば出さないような、ひたすら優しい声で、トランクスは語りかけた。
 悟飯の顔に手を掛け、少しずらして正面を向かせる。目を合わせようとしても、悟飯の瞳は何も映していなかった。
 それでも、トランクスは語りかけた。

「寒いでしょ?このままじゃ風邪引くから、後でお風呂に入らないとね」

 優しく、優しく声を紡いで、一切を拒絶しかかっている悟飯の瞳に、口付けを落とした。無意識にか、目を閉じてそれを受け止めていた。
 右手を頬に、左手で降りた前髪を掻き揚げ、額にも口付けを。唇で額の傷を撫でるように降りていき、頬にも触れていった。冷えた肌が、感覚を取り戻したかのようにぴくりと引きつった。
 芯が熱くなっていく。それでいて体の先は冷えて、凍えていた。そんな悟飯の手は、暖かさを求めるように、トランクスの背に回されていた。
 トランクスは、雨をできるだけ避けるように悟飯を抱きかかえ、外よりもさらに暗い、倒壊しかけた建物の中に入って行った。建物の中は湿っていたが、冷たい雨だけは避けることができた。 
 雨宿り、というには、二人ともずぶ濡れで、冷え切っていた。

 時刻は判らないが、すでに昼といえる時間ではないだろうことは判断できた。雨は小降りで、雲が薄くなり西日が射していた。
 人気のない建物の中に二人、まだ乾かない服を着て、悟飯とトランクスは無言で座っていた。隣同士で肩に触れ合ってはいるものの、わざと目線を合わせまいとしているのか、お互いに別々の方を見ていた。
 帰らないといけないはずが、一体どれくらいの間ここにいたのだろうか。
 だが、音もないその空間を、どちらも不快には思っていなかった。思っていなかったから、長い時間何もせずに、ただ座っていることも成立していた。
 それでも、不快には思っていなくても、どこか心地悪さが悟飯の中にあった。それは主に、相手がどう思っているか、というようなものだったが。
 それに耐えられなくて、悟飯は今日初めてトランクスに話しかけた。

「…ごめん、トランクス」
「え?」
「…俺、一人で落ち込んで…迷惑だったよな」
「そ、そんなこと、全然…」

 真剣に呟く悟飯に、トランクスの方が困ってしまった。迷惑などとは少しも思っていない。それを彼に的確に伝えるためには何と言えばいいのか、トランクスはしばし思案した。
 暗く沈んで伏し目がちになっている悟飯を、トランクスは覗き込むように顔を上げさせた。

「…確かに心配したけど、迷惑なんて思ってないよ。辛い時は落ち込んだっていいし。そうしたら、頼りないかもしれないけど、僕が助けになるし」

 ね?と言って、トランクスは立ち上がった。それで悟飯の心が少しでも軽くなってくれたらいいと思うが、なかなか難しい問題だろう。きっと、今微笑んでいても、心からの微笑ではないだろうから。
 トランクスは悟飯の闇を知らない。それは悟飯が必死に隠しているためもあり、見られることを嫌がるのであれば、トランクスも無理には見ない方がいいと、そっとしているからだった。だから、どちらもそれを口には出さない。
 介入できないところまでは深く突かず、トランクスは手を差し出した。

「そろそろ帰ろう、本当に風邪引いちゃうよ」

 悟飯はその手を受け取り、安心したように微笑んだ。建物の外に出ると、空の日はすでに沈みかけ、灰色からオレンジに変わっていた。
 共通する思いを胸に、二人は手をつないで、ようやく雨の上がった空へ飛んでいった。

 今はまだ、知らなくて構わない。

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